こんにちわ。今日もどこかをフラフラと旅しております、AJ (nobu)です。今回は、世界の偉人を調査の、スロバキア編です。
実は、スロバキアの中心とも言えるブラチスラバ城の一番いい位置にある銅像なんですが、誰だかわからなかったので調査してみました。
スロバキアへの旅行を考えているあなた、この記事をよめば、あなたの旅も深まること間違いなし!
モラヴィアの歴史
まずはモラヴィアのお勉強からです。モラヴィアは現在ではチェコのだいたい右半分の領土を指す地名です。ですが昔はモラヴィア王国として、れっきとした一つの国家として存在していました。
全盛期には、モラヴィア地方やスロバキアだけでなく、現在のポーランド、ハンガリー、オーストリアをも含んだ広大地域を支配しており、そのころの王国を指して”大モラヴィア王国”とも呼びます。
その最盛期となった大モラヴィア王こそ、今回ご紹介する、スヴァトプルク(スワトプルク)王なのです。
スヴァトプルク という男
ときは9世紀。かなり昔の人物だったのですね。
日本が平安京やってた時代だね。菅原道真とかのちょい前の人物みたいです
昔の人物なので資料が少ないようですが、当時西に隣接していたフランク王国の資料から、その半生を読み解くことが出来るようです。
どうやら彼はかなりのやり手だったようで、当時対立していたフランク王国に、当時のモラヴィア王を売って、国王の座を手に入れたらしいです。その後の戦いも、奇襲や、敵対勢力の反乱軍支援など、なかなか狡猾な手腕が目立ちます。しかしながら、国としての力は確実に伸びてゆき、領土も拡大、最終的には大モラヴィア王国と呼ばれる最大版図を築くに至ります。最終的には東フランク王国に従い、カトリックを受容。周辺地域の文化的な道筋を決めたとも言えるようです。
この辺の柔軟な対応を見てもかなり頭の切れる君主だったようですね。
むしろ大モラヴィア王国とはスヴァトプルクそのものと言って良いのかもしれません。
それを示すかのように、彼の死後は後継者問題と外圧により王国は瞬く間に崩壊。ついに1030年ごろにはボヘミア王国へ編入されるに至ります。
なるほど、モラヴィアという地域が王国としてヨーロッパに名を馳せた、その一瞬の輝きの象徴が彼だったんですね。
そんな彼の姿を、大モラヴィアから今はスロバキアとなった、ブラチスラバの城前で見ることが出来ます。スロバキアを訪れた際は要チェックですね。