こんにちわ。今日もどこかをフラフラと旅しております、AJ (nobu)です。今回は、宇宙マニアな旅人が送る宇宙講座、V2ロケット編です。
あ、誰も得しないシリーズですね。
いや、まとめ直す事によって、俺が勉強になってるし
そんなこんなで、宇宙シリーズです。まぁ、リアルタイムで見に行ったので、自分用に調べ直しただけなんですけどね。
他の世界一周中の旅人さんも、近くにあれば宇宙関連の博物館にも行ってみてくださいな。
ドイツへの旅行を考えているあなた、この記事をよめば、あなたの旅も深まること間違いなし!
V2ロケットとは!
V2ロケットは、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ミサイルであり、弾道ミサイルである!
最終的に軍事用として、この世に誕生したV2ロケット。けれども、もともとの開発は宇宙ロケットとしての開発だったんだよ
V2ロケットが出来るまでの道のり
1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会は、宇宙旅行を目指して1929年頃から液体燃料ロケットを研究していました。
しかし、当時は第一次世界大戦が終わったばかりのドイツ。おまけに、1929年からは世界恐慌がやってきます。
ここで、先の大戦よりヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたドイツ陸軍と、資金繰りに悩むドイツ宇宙旅行協会の利害が一致してしまいます。
アマチュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウンらは、1932年、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘され、フォン・ブラウンらはこれに応じて同研究所に参加します。
前身 アグリガット シリーズ
陸軍に参加してから2年。1934年12月、エタノールと液体酸素を推進剤とする小型のA2ロケット(質量 500 kg)の飛行実験を成功させます。
しかし、万事順調とはいきません。続く A3ロケットは、4回の打上げに全て失敗に終わります。
改良を加えたA4ロケットは1942年3月に初飛行し、およそ1.6km飛んで海中に落下しました。
2回目の打上げでは高度 11.2 km に到達して爆発しました。
そして、1942年10月3日の3回目の打上げでついに成功。ロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した初の人工物体となって 192 km 先に落下したということです。
幾多の失敗の上に成功があるんだね。
A3から数えたら6回連続失敗だものね。
と、健全な開発史としての側面はここで一休み。
当然、V2ロケットは兵器な訳ですから、そちらの説明もしない訳にはいきません
軍事兵器としてのV2ロケット
そもそもV2ロケットという名前は、報復兵器第2号(Vergeltungswaffe 2)の略称で、命名はナチスのプロパガンダ名人ゲッペルスによるものです。
報復と言っているあたり既に劣勢感が出ていますが、そのとおり、V2の実戦投入は第二次世界大戦の末期になります。
最初に運用段階に達したのは1944年9月2日、当時解放されたばかりのパリを攻撃すべく、ベルギーに発射基地を設営しました。また、同時期にロンドン攻撃のためにハーグにも設営、両部隊たも数日間は打ち上げは失敗に終わりましたが、9月8日両部隊とも成功しました。これが、人類初の弾道ミサイル攻撃でありました。
しかしながら、V2 の軍事的効果は限定的であったと言われています。ごく初歩的な誘導システムは特定目標を照準できず、命中精度は現在の基準では実用的ではない7 – 17kmだったと言います。
誤差17kmはやばい
また、コストは4発で概ね爆撃機1機に匹敵し、爆撃機が爆弾を4発以上落とせるのなら、そちらの方が安上がりになる計算でした。
さらにはロンドンへ向けて発射された1152機中、到達したのは半分以下の517機に過ぎなかったといいます。到達したもの以外は途中で空中分解か暴発というありさま。
これだけ聞くと、ほとんど兵器としては落第点だったみたいだね
ただし心理的効果はかなり大きく、超音速で前触れもなく飛来し、既存の兵器では迎撃不可能な V2 は、ドイツにとって有用な兵器だったそうです。反面迎撃不可能ゆえに、V2 の攻撃を阻止するには発射基地を制圧する必要があり、かえって連合軍のドイツ侵攻を早める動機づけにもなった、という説もあり、そのような意味ではドイツの敗北を早めた兵器とも言割れているそうです
また、V2 は、ドイツ中部のノルトハウゼン近郊の岩塩採掘抗を利用した工場で、近隣に設けられたミッテルバウ=ドーラ強制収容所の収容者により生産されました。その多くはフランスとソ連の戦争捕虜で、劣悪な環境の中、そのうち約10,000人が過労死したり警備員の手で殺されたそうです。皮肉にもこの数はV2の実際の攻撃による死者数を上回っているのだとか。
V2ロケットのその後は、宇宙開発の歴史をまとめた別の記事にあるとおり、第二次世界大戦の後、各国に持っていかれ分解され、、それぞれの国でロケット開発の礎となってゆきます。
フォン・ブラウンのその後も、宇宙開発全体の記事をご覧ください
最後に
こんな話もあるそうです。
1944年、人事命令に異を唱えたフォン・ブラウンはゲシュタポによって逮捕され、2週間後にシュテティーンの収容所において、親衛隊による裁判にかけられます。
嫌疑は「軍用のロケットには関心が無く宇宙探査を目的として働いていて、イギリスへロケットの設計図と共に小型機で亡命する計画がある」というもの。
ドルンベルガー陸軍大尉がヒトラーに直訴して、釈放されましたが、彼の胸中は如何なものだったのでしょうか。
とにもかくにも、これが人類の宇宙開発の実質的な第一歩であったといえるのです。
それでは、また次回