ソビエト 宇宙開発史

宇宙を漂うソユーズ 宇宙への道

こんにちわ。今日もどこかをフラフラと旅しております、AJ (nobu)です。今回は、シリーズ宇宙開発の歴史 ソビエト編

宇宙に興味のない旅人も、せっかくなので少しでも宇宙に興味をもって旅をしていただたらなと思います。

もっと大まかな、人類の宇宙開発史に関してはコチラ⇩

ロシア、ウクライナ、カザフスタンへの旅行を考えているあなた、この記事をよめば、あなたの旅も深まること間違いなし!

ソ連 宇宙開発の歩み

世界の第一次世界大戦前のロシア帝国時代に、ツィオルコフスキーによって確立されました。彼は19世紀後半から20世紀初頭にかけて先進的な論文を公表し、その中には多段式ロケットの概念も含まれていました。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

本格的なロケット開発の始まりだね

宇宙開発の基礎技術は1920年代・30年代のロケット研究グループ、GIRD( 反動推進研究グループ)による実験によって確立されます。

だるま ちゃん
だるま ちゃん

いざ、理論から実践へ

GIRDではドイツの工学者ザンデルや、後にソビエトの宇宙開発の中心となるセルゲイ・コロリョフが働いていました。1933年8月19日、GIRDはソビエト初となる液体燃料ロケットGird-09を打ち上げるに至ります。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

後の業界の中心人物が、昔は同じ研究所に居た。たまにあるパターンやね。

だるま ちゃん
だるま ちゃん

1933年に、すでに液体燃料の技術が、実験されていたとわ

ソ連から見る宇宙開発戦争;コロリョフ先生大活躍

第二次世界大戦後、ナチスの遺産、特にV2ロケット工場から取得した図面により、ソ連のロケット工学研究は飛躍します。1947年初頭にソビエトはドイツからすべてのロケット技術をソビエト国内への移送を完了します。ソビエト/ドイツ合同チームでカスピ海の北部の草原地帯で11機のV2ロケットを打ち上げました。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

技術移転にまる2年か

だるま ちゃん
だるま ちゃん

当時のドイツの技術が、それだけ先行していたということかな

 

ソ連のロケット 第一号 R-1!

ソ連の宇宙開発を語る上でセルゲイ・コロリョフは欠かせません。彼はまず図面を精査し、V2ロケットの複製R-1を製作しました。また同時に、GIRD時代に自らが実験していた極低温燃料を使用するロケットエンジンの開発にも注力します。この開発は大陸間弾道ミサイルR-7の開発に帰結し、1957年その試験に成功します。R-7は、その有効射程と5トンにも及ぶペイロード能力で、核戦略上の高い実用性をもち、同時に宇宙ロケットとしても優れた土台となりました。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

悲しいかな、宇宙ロケットを作るには、まずロケット兵器を造る技術がないといかんからな

神官さま
神官さま

どんな技術も、使う人次第ですね

 

人類初の偉業 スプートニク

そして1957年、世界初の人工衛星、スプートニク1号が打ち上げられます。

スプートニク打ち上げは、米国の安全保障を脅かすものであるとの懸念から、スプートニク・ショックと呼ばれる社会現象が発生しました。米国は1958年にNASAを設立し、ソ連との宇宙開発競争に乗り出すことになるのです。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

アメリカも宇宙開発は行なっていたけど、それらは軍部が中心だった。国を挙げた協力体制を整えて、NASAを設立したのはソ連に先を越されたからなんだね

二年おきに大偉業

1957年にスプートニクが成功したソ連ですが、その後もアメリカに先行して人類初の偉業を達成していきます。また、コロリョフはソ連本部より、有人ロケットの開発を指示されることになります。

  • 1959年には月の裏側の写真を撮影したルナ3号の成功。
  • 1961年には、有人宇宙船ボストーク1号により、ガガーリンによる世界初の有人宇宙飛行を達成します。
  • 1963年に、女性初・非軍人初となる有人宇宙飛行士の誕生。「わたしはかもめ」で有名なテレシコワ。
  • 1965年に、人類初の宇宙遊泳をレオーノフが行います。

しかし、その翌年の1966年、ソ連の宇宙開発をひっぱてきたコロリョフが亡くなります。数々の業績により、コロリョフは「ロシアの宇宙開発の父」と呼ばれているのです。

コロリョフ以後のソ連 宇宙開発

さて、その前にソ連内部の開発体制を確認しておきましょう。

アメリカの宇宙計画はNASAが唯一の調整機関であり、1960年代のほとんどを通じてジェイムズ・ウェッブ長官が指揮を執ったのとは異なり、ソ連の宇宙計画はコロリョフの他にもミハイル・ヤンゲリ、ヴァレンティン・グルシュコ、ウラジーミル・チェロメイらに率いられ、複数の設計グループ(設計局)に分かれていました。

神官さま
神官さま

切磋琢磨スタイルの開発

 

AJ(nobu)
AJ(nobu)

国全体では、切磋琢磨スタイルは資本主義のアメリカだったわけで、真逆なのはおもしろいね

反面、これらの開発体制は、開発局間の足の引っ張り合いや、予算の分散といったデメリットを含んでいました。そんな中、1957年から1961年のスプートニクの成功を受けて、コロリョフの第1設計局が大きな影響力もつことになります。多くの不安要素がありながらも、60年台前半までソ連が世界の宇宙開発をリードしてきたのは、コロリョフがソ連内の開発をまとめ上げてきたからかもしれませんね。彼は、1964年のフルシチョフの失脚以降、有人飛行計画については完全な指揮権を与えられていたほどでした。

コロリョフの後継者たち

そんなソ連宇宙開発の最重要人物コロリョフが1966年に亡くなります。後をついでソ連の宇宙開発を引っ張ることになったのは、他の設計局の局長ではなく、コロリョフの部下たちでした。

第1設計局長となったのは、ヴァシーリー・ミシン、ミシンはセルゲイ・コロリョフの主席補佐として、長年に渡りコロリョフと共に開発を行っていた人物です。初の大陸間弾道ミサイルR-7をはじめ、人工衛星スプートニク、有人宇宙船ボストーク、ソユーズのプログラム開発等をともに手掛けてきました。第二次世界大戦末期にナチスのV2ロケット施設を視察した初めてのソビエト人専門家でもあありました。

しかしながらミシンは、コロリョフのような政治力を持ち合わせておらず、さまざまな重圧の中立て続けに失敗を誘発してしまいます。

無人試験に一度も成功していないにもかかわらずソユーズ1号の打ち上げを承認し死者を出してしまったり、新型のN-1ロケットの無人発射試験が4度失敗に終わり、開発が放棄されたりします。

もちろん幾つかの成功(ソユーズ4号とソユーズ5号による世界初のランデブー、ドッキング、船員移動。ルナ9号による世界初の月からの発信。など)はありましたが、N-1ロケット開発失敗が決定打となり、結果的に1969年、アメリカのアポロ11号に人類初の有人月面着陸を許すことになってしまいます。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

ちなみに日本初の人工衛星は1970年の”おおすみ”。

アポロが月に行ったあとのことなんだ。

米ソ冷戦の終わり は 開発競争の終わり?

1970年台に入ると、米ソの冷戦は緊張緩和(デタント)というフェーズに入ります。

宇宙開発もまた、共同路線を歩みます。象徴的なのは1975年の米ソ共同でのアポロ・ソユーズテスト計画です。ソビエトのソユーズ19号とアメリカのアポロ18号が宇宙空間でランデブーの上ドッキングし、「敵国」の宇宙飛行士をお互いの宇宙船の中に招き入れ、共同での科学実験を行いました。

月面着陸競争では破れましたが、その後もソビエトは悪化する経済に抗いながら開発を進めます。(一説には、宇宙開発や軍事開発のせいで経済が疲弊されたともされています)

例えば、世界初の宇宙ステーションは1971年のソ連のサリュートです。世界初の火星軟着陸も1971年のソ連です。また、世界初の金星周回軌道投入もソビエトが1975年に行っています。

 

太陽の精
太陽の精

アポロがピークに違いはないけど、それ以降も開発競争があったんだね。

 

また、アメリカはスペースシャトルを開発しましたが、同型のエネルゲアという往還船を開発し、1986年には長期的有人宇宙ステーションのミールを打上げています。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

1991年のソ連崩壊まで、ソ連は宇宙開発を続けていたんですね。

太陽の精
太陽の精

エネルゲアは結局打ち上がらなかったけどね

 

宇宙分野において、数多の世界初の偉業を成し遂げてきたソ連ですが、その後1991年にソ連は崩壊します。そこでの技術はロシア、ウクライナ、カザフスタンへと引き継がれていくことになるのです。

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