こんにちわ。今日もどこかをフラフラと旅しております、AJ (nobu)です。
旅を時系列順に紹介する”旅のみちしるべ”、アゼルバイジャン編も終わってしまいましたね。
まぁ、アゼルバイジャン編はあっさりしていたのだけれども。
お次は、イラン編の予定です。
だがしかし、筆者の脳内記憶がアゼルバイジャンをウロウロしている間に、書いておかなければいけない記事が、日本のみんなに紹介しておかなければならない人物がおりました。
それは、アゼルバイジャン絵画の父 サッタール・バルルザデーさんです。
久しぶりの画家紹介記事だわね。
英語の綴りだと、sattar bahlulzadeさん。なんだかめっちゃ言いにくいです。日本語情報もほとんどネットにないので、日本への紹介は、僕が本邦初なのでは!?
ゴリゴリの印象派で、日本人好みな感じがとてもしますね。
アゼルバイジャンへの旅行を考えているあなた、この記事をよめば、あなたの旅も深まること間違いなし!
サッタール・バルルザデー 作品
まずは、作品をいくつか見ていただきましょう!
色使いがパステルなので、筆使いはダイナミックなのに、なんだか可愛い作品が多いです。
タッチと色使いが独特の世界観を生み出していますね。
画風には統一感があり、多くの作品が同じような手法で描かれています。
実はサッタールさんの作品は、写真OKなアゼルバイジャンを美術館でも、唯一、写真NGだったり特別な扱いを受けています。なので、画像はネットからの拾い物になります。
英語の綴り”sattar bahlulzade”で検索してもらえると、他の作品も色々見れますよ。
そんなに古い人じゃないから、厳密にはネット掲載も著作権的にグレーなんだけどね
サッタール・バルルザデー 略歴
ということで、アゼルバイジャン絵画界の巨匠”サッタール・バルルザデー”さんの経歴も確認しておきましょう。
こちらは、よく使われているポートレートです。晩年の写真でしょうか。とても、渋いおじさんですね。
サッタールさんは1909年生まれの、ゴリゴリのアゼルバイジャン人です。生まれはバクーにほど近いアミラン村。1920年頃になるとソヴィエトの統治が確立し、アゼルバイジャンもソ連邦の一部となりました。そんな時代にアゼルバイジャン国立美術館にて絵画を学んだ後、彼はモスクワの美術学校へと通いました。
年代で言うと、ピカソより20年ほど年下になります。美術界では、様々な表現技法が模索されていた時期。サッタールさんも様々な技法を試したのだということです。
1939年、モスクワでの修業を終えてバクーに戻ります。翌年にアゼルバイジャンで開かれた展示会で受賞し、一躍アゼルバイジャン絵画界のスターになったそうです。
その後も一貫して故郷”アゼルバイジャンの風景”を描くことにこだわり活動を続けます。
「ゴーギャンはタヒチに行ったが、私にはその必要はない。魅力的な故郷があるから」
という言葉も残したとか。その郷土愛の強が伺えますね。
画風から察せる気もしますが、性格もかなり破天荒な方だったようで、夜中まで騒いで酔っ払ったり、といったことも多かったみたいです。
1974年に病気で亡くなります。ソヴィエトの偉人は盛大に埋葬されることも多いですが、彼は、彼の遺言通り故郷のアミラン村に村にひっそりと埋葬されているのだそうです。
故郷、アゼルバイジャンでは記念切手にもなっているようです
おわりに
ということで、今回はアゼルバイジャンの画家サッタール・バルルザデーのご紹介でした。
こうして、日本では、あまり知られていない人や物を日本に紹介できるのは、旅ブロガー冥利に尽きますね。
今後も、海外のいろんなものを、発掘&紹介していきますね
アゼルバイジャンにお立ち寄りの際は、ぜひとも彼の作品を生でご覧になって下さい。
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