今回のあらすじ
キプロス島からヨルダンへ飛んだAJ
まさか9カ月滞在するとは、この時は微塵も思っていなかったのだ
ヨルダン で9ヶ月 暮らす!
ということで、ヨルダン編の始まりです。
まぁ、ヨルダンでの生活のあらましは、旅の2周年記事でも書いたのですが、まずは改めてざっくり振り返ってみます。
いずれも2020年の出来事です⇓
3月・・・コロナが世界的に拡大。ヨルダンは完全な鎖国政策を取ったため、出国も入国も不可
4月、5月・・・状況が継続。ほぼホステルに軟禁状態が続く。徐々に規制は緩和されるが、国境・県境ともに封鎖される。
6月・・・県境の封鎖が解除される。国境封鎖はそのまま
7月、8月・・・状況が継続。この当時の記事が上記の旅の2周年記事 。日本語教室、モデル、オンラインの占い師、家庭教師などを始める。
9月・・・国境が開放され、出国が可能になる。ただし行ける国は、少ない。
10月〜12月・・・世界的に規制緩和が進む。日本語教室などをやっていたこともあり、結局9ヶ月のヨルダン滞在となった。
というのが、ヨルダン滞在のあらましとなります。
記事ではもう少しづつ、いろんな出来事を振り返りながら書いていこうと思います。
ヨルダン 到着!
ということで、何も知らない旅人、キプロスからフライトヨルダンに到着です。
もともとは、10日ぐらいの滞在で、イスラエル→エジプトあたりを周る腹づもりでしたねぇ〜
空港からバスに乗り市内の停留所に降ろされます。
ここから9ヶ月の生活が始まったんですね。
到着したときはちょうど雨でしたが、まだ人々とは忙しなくあるきまわっていました。
夜の屋台もやっていました。
アラビア風コロッケのファラヘル。これから散々食べることになるとは知らずに(笑)
翌日
なのに、翌日には、この有様・・・
まぁ、正確には翌日ではありませんね。その日は外出禁止でしたので。これは外出禁止になってから一週間ほどあとの写真です
当時を思い返してみると、イギリスに滞在していた頃から中国で武漢ウィルスがにわかに騒がれていました。でも、正直それほど気にはしていませんでした。
それが、ヨルダンに着くやいなや、ヨーロッパでも広がりをみせ始め、一斉にヨーロッパがロックダウン政策を開始。それに習うようにヨルダンもロックダウンが決定しました。
先程の屋台で晩御飯を食べて、宿に戻りちょっとゆっくりしていたところ。宿のオーナーが部屋に入ってきて、明日は外に出れないと伝えてくれました。
最初の3日間は、本当に一切の外出ができない状態でした。
二日目には、パン(中東特有の平たいやつ)と水の配給が軍からありました。
まさか、配給のパンを頂く経験をするとは思いませんでした。
市営バスに乗った軍人さんが、パンを配りに市街地を回っていました。宿のオーナーさんに、「軍がパンを配りに来るから一緒に貰いに行くぞ」と誘われて、貰いに行きました。
ヨルダン政府も手探りでやっていたようで、この完全外出禁止とパンの供給政策は3日で変更になりました。
その後は、奇数の日に一時間だけ外出可能になったり、食料品の買い出しなら外出OKになってり、いろいろと日毎にルールが変わっていく日々でした。
今思うと、かなり貴重な体験でした、いい思い出です。
ヨルダン ロックダウン生活
ということで、ロックダウン中の生活をいくつか紹介。
まずは寝床から。
当時最安、一泊300円の安宿です。
この部屋に、僕と、オーストラリア人の僕より少し年下の旅人、ヨルダンの他県から来ていたあんちゃんの3人で1ヶ月くらい生活していました。
向かい側はこんな感じ。
他の部屋に、アメリカ人のおばあちゃんが一人、さらによくわからない地元のアラビア人が日によって3〜5人泊まっている感じでした。
料理はだいたいみんなで協力してやります。
たまには、贅沢に屋上でBBQも
なにせ、最初の一ヶ月ほどは、ほんとに食料品の買付以外は、ほとんど外出できませんでしたからね。料理が一日の楽しみで、あとはそれぞれ、ネットで映画でも見ながら過ごしていました。
ヨルダンの市場には、以外にもキッコーマンの醤油が売っていました。
これにどれだけ救われたことか・・・
真ん中のはタヒーニというゴマペースト。
味変したいときにかけると一気にコクがでる、スグレモノ調味料です。
ヨルダンは野良猫たくさんいるんですが、街から人が消えて、野良猫もびっくりしているようでした。
葡萄の葉っぱの酢漬け、これで郷土料理を作ります。
ロールキャベツみたいに包んで食べるのですが、僕はあまり好きではなかったですね。
BBQはそういえば、チキンじゃなくてダックでしたね。買い出しは、現地組にお願いすることも多かったです。
バッファロー肉の時もありました。豚はだめですから、代わりの選択肢が多いのかも知れません。
途中からよく食べていたのが、デーツパン。デーツはナツメヤシの実のことですね。
なんだか、フルーティなアンパンを食べているようでした。
デーツは、本当によく食べられていました。干し柿みたいだけど、ちょっと甘すぎるんですよね。
ときにはジャンクなファストフードを食べたり。外食がちらほら再開したのも一ヶ月たったあとの4月くらいからでしたでしょうか。
アンマン観光
外出制限が徐々になくなっていき、滞在していた首都のアンマン市内は観光ができるようになってきました。
アンマン市内の目玉、ローマ劇場。ヨルダンは今でこそ中東の国、アラブ文化の国ですが、古代ローマ時代の遺跡が多く残されています。
暖かくなるに連れて、色々な花も咲き、とてもきれいでした。これは白色のバウヒニア。さきほどのローマ劇場の近くによく咲いていました。
ローマ劇場の向かい側、小高い丘に残るシタデル。こちらもアンマン観光の目玉です。
凧揚げしている子どもたちも、多かったですね
途中でヨルダンの独立記念日(5月25日)があって、みんな外に出れない中で、政府が打ち上げ花火を上げたりしていました。この頃は、夜間外出以外は自由にできるようになっていましたね。
日本でもブルーインパルスが飛んだりしていたんですよね。ネットでみました。
同じく、ラマダンもありました。
僕も絶食にチャレンジしようとしましたが、3日でリタイア。ちゃんとやっている人は偉いですよ、ほんと。ちなみに宿の現地人組もほとんどやっていませんでした。
ラマダンの時期には、このどら焼きの皮みたいなパンが多く出回ります。
こんなふうに、中に甘い物をつめて、さらにシロップを掛けてたべるのですが、それだと甘すぎるので、僕は生地だけムシャムシャ食べて楽しんでました。
ラマダン明けのイードというお祭りの時期からは、夜間外出も本格的に再開されました。
そんなふうにして、3月から6月へとあっという間に時が経って行きました。
・・・と、ここまでなるべく楽しそうに書きましたが、いろんな事もありました。
なにせ、安宿なので、水は出なくなったり、ガスもなくなったり、Wifiもなくなったり。僕とオーストラリア人とアメリカ人の海外組以外は無料で泊まっている事実が発覚したり。なんなら、買い出しを頼んでいたときの料金が倍くらい取られていたと発覚したり。
他には、日本へ直行する臨時便が50万で用意されて、だれが乗るかとやさぐれたり。長期滞在のためのビザが必要で、現地警察や外務省を訪ねて、ひたすらたらい回しにされたり。
とにかく、どんどん暑くなったり。
さらにはオーナーだと思っていた男性が突如いなくなり、翌日本当のオーナーが現れて、最初のオーナーは実はただの雇われレセプションで、売上持ち逃げしたことが判明し、本物のオーナーに泣きつかれたり。
ま、すべていい思い出です
ということで、3ヶ月、きっちり軟禁生活を満喫しました。
相変わらず国境は封鎖されたままでしたが、その後の6月から、いよいよ県境の封鎖が解かれました。
僕とオーストラリア人の友人と、アメリカ人のおばあちゃんの3人で、ようやく3ヶ月のお預けの末に、ヨルダン観光の日々が始まるのでした
おわりに
ということで、ヨルダン生活編の第一話でした。
つづく⇨
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