プロイセンってどのあたり?意外と知らない旧国名

プロイセンの場所 中央ヨーロッパ

こんにちわ。今日もどこかをフラフラと旅しております、AJ (nobu)です。今回は、プロイセンを大調査です!

AJ(nobu)
AJ(nobu)

なんだかドイツのイメージがあるけど、今はポーランドなんだね。

男爵
男爵

その辺は歴史が複雑に絡んでます

ポーランド、リトアニア、ロシア、ドイツへの旅行を考えているあなた、この記事をよめば、あなたの旅も深まること間違いなし!

プロイセンってどのあたり?

プロイセンは、現ポーランド北部からカリーニングラード州、リトアニアにかけて広がる地域です。英語名(Prussia)からプロシアと呼ばれることもあります。

プロイセンの場所

ものすごく分かりやすいポーランド周辺の落書き地図

第二次世界大戦以前のプロイセンの住民は、東方植民によって移住してきたドイツ人が多数を占めていましたが、終戦前後にソ連が行ったドイツ人追放または国外避難でほとんどのドイツ人はドイツへ移住し、現在のプロイセンの住民のほとんどはポーランド人、ロシア人またはリトアニア人となっています。

プロイセンの歴史

むかしむかし

西暦98年、タキトゥスの「ゲルマニア」記述によると、スエビ族、ゴート族とその他のゲルマニア民族が居住していた。約800-900年後、アエスティは古プルーセンと名づけられ、997年以降ポラン族の新公国からの侵略には幾度も抵抗に成功した。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

ほうほう。もともとはポーランド人とも違う、プロイセン人が住んでいたんだ

10世紀に西スラブ民族のキリスト教化が進むと、977年にポーランドの王様は司教を布教目的にプロイセンに送り込むが、プルーセンの異教司祭により殺される、なんてこともありました。プルーセン人はその後も13世紀の終わりまで、北方十字軍と呼ばれたポーランドによる侵略を幾度もつけますが、これを撃退します。ポーランド王のコンラト1世は終に、土地の領有権と引き換えにドイツ騎士団を招聘しプロイセンを攻撃します。

プロイセンはドイツ騎士団により征服され、もともといたプルーセン人達の領土はドイツ騎士団国家の管理下となりました。

太陽の精
太陽の精

なるほど、ここでドイツが出てくるのか

ドイツ騎士団領時代

1神聖ローマ皇帝により騎士団のプロイセン領有が認められ、ドイツ騎士団はプロイセンへ城を築き拠点とし発展していきました。先住民は頑強に抵抗したがドイツ騎士団は軍事的にも優勢で14世紀前半までにプロイセンの大半はキリスト教化されたそうです。

文字を持たなかったプルーセン人は文字での記録を残さず、生き残った人々も次第にドイツや周辺地域からの移民に同化されたため、今ではこれら先住民のことはドイツ騎士団が作成した原住民語の記録がいくつか残っているほかは史料が少なく、ほとんど分からないそうです。

ポーランド=リトアニア連合時代

ポーランドとドイツ騎士団は基本的には仲が悪く、その後も戦争が繰り広げられます。そして1410年タンネンベルクの戦いでポーランド=リトアニア連合はドイツ騎士団を倒します。

最終的に西プロイセンの全域と東プロイセンの一部はポーランド王領プロイセンとなり、ドイツ騎士団は東プロイセンの一部を保持したがポーランド王の従属国の位置となりました。

以後、1770年までプロイセンの分裂時代が続きます

宗教改革はプロイセンから

プロテスタント宗教改革の時代、1525年最後のドイツ騎士団総長がルター派に改宗、辞職し、プロイセン公国は初めてのプロテスタント国家となります。(ポーランド従属ではあった)公爵の首都ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)はプロテスタントの教えの中心地となります。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

へぇ〜、ポーランドはカトリックの国だけど、プロテスタントはプロイセンから始まったんだね

スウェーデン・ポーランド戦争やロシアとの数々の戦争でポーランド・リトアニア共和国は衰退していきます。ポーランドの支配力が弱まるのと裏腹にプロイセンは力をつけていき、ついにはプロイセン王国として独立に至ります。

だるま©
だるま©

おぉ、ドイツ系が支配権取り戻したのね

プロイセン王国は19世紀後半さらに勢力を増し、1867年には北ドイツ連邦の盟主となります。さらに1871年プロイセン国王のヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となります。それと同時にプロイセン王国としての意識は急速に薄れていき、プロイセン地方はドイツ帝国の一地域となっていきました。

クラクフのお城

写真は関係ないけど、ポーランドの南クラクフの建物

近代以降の歴史

第一次世界大戦の戦後所為ヴェルサイユ条約によりプロイセン王国はヴァイマル共和国の一邦・プロイセン州となりましたが、西プロイセンはポーランド回廊としてポーランド領になりました。(これにより東プロイセンはドイツ本土の飛び地となった)

そしてまた、ポーランド回廊に対するドイツの領土要求が第二次世界大戦勃発の原因となるのです。

戦後は1945年のポツダム会談により、東プロイセンはソ連に、それ以外の土地ははポーランドに分岐されました。終戦直前までプロイセンに居住していたバルト・ドイツ人の多くは自発的に避難又はドイツ人追放により国外移住となったそうです。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

まさに激動の歴史だね。

おわりに

なんだか、世界史で聴いたことあるけど、正確に知らないなぁ〜

と軽い気持ちで調べ始めたら、なかなかヘビーな歴史でした。

歴史的に見ると、ドイツも、ポーランドも、両者とも長い歴史をプロイセンとともに過ごしているんですよね。海沿い港町ありという重大な地政学ポイント。さらにプロテスタント的には聖地みたいな土地柄という。

かといって、今更なにも言えんよなぁ。げんに第二次世界大戦の引き金にまでなってる土地ですからね。

この辺の知識を知って旅するのと、知らずに旅するのは、同じ街でも感じ方が結構違うかもね。

ではまた次回

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