どうも、いい加減ルーマニア滞在長すぎじゃね?なAJ(nobu)です。
突然ですが、ルーマニア出身の有名人といえば?
普通の人なら、知りませんよね。ルーマニア旅行を企画している人なら、ワラキア公ヴラド・ツェペシュが思い浮かんだんじゃないでしょうか。
でも、今回は、もうちょいニッチな知識をご紹介!!
ドラキュラ!ヴラド・ツェペシュ!!ワラキア公!!!
あらためまして、旅人です。
男の子だったら、みんなだいすき、偉人のおはなし!
ルーマニア出身の有名人に、あのオスマン帝国と壮絶に戦った、ドラキュラ伯爵、ヴラド・ツェペシュが居ることは、ちょっと漫画とかゲームとか好きだったら知っていることですよね。
生きていれば一度くらい、吸血鬼モノの作品に触れますよね。なぜこうも人は吸血鬼モノの作品に惹かれてしまうのか
その元ネタ、ヴラド・ツェペシュですが、よく”ワラキア公”と紹介されることが多いです。
今回は、そんなワラキア公を。。。。取り上げません!
どれも聞いたことがある。ルーマニアの地域名
さて、みなさんはルーマニアにむかし存在していた旧国をご存知でしょうか。
じつは、ルーマニアとは、もともとこの地域に存在していた
ワラキア公国・トランシルヴァニア公国・モルダヴィア公国の、3っつの国から成り立っています。
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そこで、旅人は思ったのです。
ワラキア公だけ有名なの、他の2地域が可愛そうじゃね??
とっても、慈悲深いね
モルダヴィア公 シュテファン3世
ひとり目は、この方、シュテファン3世
なんと、あのドラキュラの従兄弟です。
なるほど、3つの国に分かれていたとて、実際は家族経営だったりしてたんですね。しかし従兄弟のヴラド・ツェペシュとの関係は複雑です。モルダヴィア公となるときは、従兄弟に力を貸してもらったりもしたそうですが、その後は領地を巡って対立したりもしたんだそうです。
さて、みなさんはドラキュラ・ヴラドの最後を知っていますか?
実はヴラド、新オスマン帝国派の弟によってトランシルヴァニアへ追いやられることになるんです。領土争いを繰り広げたとは言え、ともにオスマン帝国に抵抗していたシュテファンは、彼を助けるべく援軍を送ります。一時は救出に成功しますが、その翌年ヴラドはオスマン帝国との争いで戦死してしまいます。ワラキア領はいっきにオスマン帝国の支配下へと移り行きますが、それでもこのシュテファンはその後、25年に渡って抵抗を続けたといいます。義理堅いところといい、屈しないところいい、モルダヴィアの誇るイケメン認定しても良いのではないでしょうか。
トランシルヴァニア公 ヤーノシュ2世
次に、トランシルヴァニアの偉人です。
ですが偉人のお話の前に、このトランシルヴァニアという土地について、もう一つニッチな知識を共有しておきましょう。
今でこそ、ルーマニアという国の一部なこの地域ですが、昔はハンガリーの一部という側面のほうが強かった土地です。現在では住民の8割がルーマニア系・2割がハンガリー系、といった感じですが中世の時代、第一次世界大戦前ではハンガリー系が6割、ルーマニア系が3割、ドイツ系が1割、といった民族分布だったそうです。
話を戻しまして、このヤーノシュさん。つまりはハンガリー人で、ハンガリー王も自称されていた方です。この人は、なんとヨーロッパで初めてプロテスタントを認めた方で有名です。
当時宗教改革真っ只中だった東ヨーロッパ。そんな、中で様々な見解を見聞していたヤーノシュは「トゥルダの勅令」を公布します。これは、近世ヨーロッパにおいて初めての、広範な宗教の自由を保障した勅令でした。更には、当時主流だったカトリック、ルター派、カルヴァン派、ユニテリアンの四者の間での公開討論を主宰します。他にも、全ての宗教・宗派の間での開かれた討論を行うことを奨励していたそうです。
なんか、先進的すぎません?この人。とても柔軟な思考の持ち主だったようですね。
宗教の自由の父みたいなひとやな。ドラキュラよりよっぽどすごいんじゃ
おわりに
今回は、ルーマニアが誇る偉人を二人紹介させてもらいました。ホントは、もう一人いたんだけど、記事が長くなっちゃうので、それはまたの機会に。
歴史を知って旅をすると、より一層旅が面白くなりますね。