こんにちわ。今日もどこかをフラフラと旅しております、AJ (nobu)です。今回は、キプチャクを取り上げます。
あぁ、あれね。キプチャクね、キプチャク。
あ、わかってないな。こいつ。
ウクライナやロシア 、カザフスタンへの旅行を考えているあなた、この記事をよめば、あなたの旅も深まること間違いなし!
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そもそも キプチャクとは
あらためまして、旅人です。今回は、キプチャクです。
以前カザフスタンいた時に、カザフの歴史を少し勉強してたら出てきたキプチャク。すっかり忘れた頃に、ウクライナで、今度はウクライナの歴史を調べていたら、また出てきました!
そう考えると、キプチャクと呼ばれるエリアは、ものすごい広範囲ですね。
キプチャクは、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族の名前です。
地名や国名じゃなくて民族名なんだ
また、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはクンと記されたりもします。
あ、その名前ブルガリアの歴史でも見たな
また、現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、その名前にちなんでキプチャク草原と呼ばれています。さらに、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスもまた、その名前にちなんでキプチャク・ハン国と呼ばれたりもします。
民族名でありながら、地域名、国名でもあるんだね
キプチャクの歴史
キプチャクはテュルク系の遊牧民で、11世紀頃ヴォルガ川方面から黒海沿岸のステップに進出しました。それ以前の歴史は不明な事が多いですが、進出と共に東ヨーロッパのルーシ諸国の脅威となることで、歴史にその名が現れ始めます。
十一世紀末には、キエフ・ルーシに対しては度重なる襲撃と略奪を行い、修道院を焼失させたりして暴れます。12世紀初頭、キエフ側からの反撃にあい、ドン川流域にサルチャク・カンの少数の軍が残る程度となります。サルチャクの弟オトロクはその後、グルジアのダヴィド王に仕えたりしました。
おぉ、グルジアのダヴィド王はジョージアでよく見かけたなぁ
歴史はつながっているね〜
その後1125年にルーシ公であったウラジーミル2世モノマフが没っすると、キエフ内でルーシ諸侯の抗争が激化します。それに伴い、キプチャクは諸侯によって敵対したり協力したり、様々な関係をとるようになり、中には騎馬遊牧をやめて定住したりするキプチャクも現われはじめます。
モンゴルの侵攻よりも前から、騎馬遊牧民が東ヨーロッパに進出していたというのが、キプチャクの面白いところかもしれませんね
1170年 – 1180年代になると、キプチャクは再びルーシに侵攻し、ルーシ諸侯と激闘を繰り広げました。しかし、最終的には1223年、2回にわたるモンゴル軍の侵攻により、キプチャクはその版図に組み入れられ、キエフ・ルーシともどもジョチ・ウルス領となリます。一部のキプチャク人はマジャールの地に移住し、ハンガリーの傭兵となったそうです。
結局モンゴルにやられるパターンなのね
まとめ
今回は、キプチャクについてまとめました。
国名だったり、地名だったりしてややこしかったのですが、結論としましては、民族名であり国名であり地名である。ということのようです。
あと、ドン川とヴォルガ川の位置関係も調べられたので良かったです。
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