ドラゴン騎士団。
そんな、中学生が考えたような名前の騎士団があるわけ・・・、あった!
今回は、ハンガリーが誇った最強軍だとも言われる、ドラゴン騎士団を調査いたしました。
ルーマニア、ハンガリーを旅する人は、知っていると旅が深まる!かも!!
なんで調べたの?
そもそも、なんで今回ドラゴン騎士団なるものを調べたのかといいますと、
ルーマニアを旅する⇨ドラキュラについて調べる⇨
ドラキュラの語源がドラキュラの父親がドラゴン騎士団の一員だったことを知る!
なにその騎士団、かっこいい。
的な流れになっております。
ドラゴン騎士団あらまし
ときは15世紀初頭。
ペストが流行った14世紀と、宗教改革が起こった16世紀の間の期間。
the・中世みたいな時代です。
そんな時代、後に神聖ローマ皇帝になるハンガリー王ジギスムントによって、ハンガリー王室を守るために作られたのがドラゴン騎士団です。
実際名前に劣らずかなりの最強軍だった模様です。主だった参加者は
- アラゴン王アルフォンソ5世
- セルビアのステファン・ラザレヴィチ
- チェコの貴族チェネク・ヴァルテンベルカ2世
- ポーランド王兼リトアニア大公ヴワディスワフ2世
- リトアニア大公ヴィータウタス
- オーストリア公エルンスト
- デンマーク王クリストファ3世
- イングランド王ヘンリー5世
- のちのハンガリー王兼ボヘミア王ウラースロー2世
- ワラキア公ヴラド2世(1431年、ヴラド・ツェペシュの父)
- ワラキア公ヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)
もう、東欧オールスター+イングランド王みたいな感じです。
ちなみにセルビアとチェコの人以外はWikiに個別ページがあります。
二人だけカワイソス。
(特に”セルビアの”って、一応調べたら公爵みたいです)
さてそんな騎士団を作り上げたというジギスムントですが、
当時分裂していたキリスト教を統一したり(あと、異端をいじめたり)したことで有名です。あと、名前がかっこいい。
次は皇帝ジギスムントについて調べましたが、なかなか壮絶な人生でした。
ということでジギスムントを知ろう
1368年に生まれたジギスムントさん。もちろん父親はローマ皇帝。バリバリのプリンスです。
と言ってもこの時代のヨーロッパは、皇帝は選挙で選ぶ制度だったので、簡単に皇帝になったわけではありません。次男だったし。
成長したジギスムントは、ハンガリー王国のお姫様を嫁さんにもらい、ひとまずハンガリーの王様になります。(1385年、ジギスムント17歳のときであった。。。若っ!) けれどもハンガリー国内も一枚岩ではなかったようで、その結婚も2年ぐらいかけて1387年に正式に認められたのだとか。
ジギスムントのここがすごい”ニコポリスでやらかす”
ハンガリー王となったジギスムント、早速の仕事が東からやってくるオスマン帝国対策です。
この時代オスマン帝国はバヤジット1世というバリバリの王様がガンガン、バルカン半島へ攻め込んでいました。それを何とかするべく、十字軍を呼びかけます。当初ジギスムントはヒット&アウェイ的な作戦で戦うつもりでしたが、血気盛んなやつに押される形で、結局は約10万のオールヨーロッパ的な軍隊で、一路エルサレムを目指すこととなります。
おいおい、やめとけよ。。
10万人!じつはこのニコポリス十字軍は最後の大掛かりな十字軍だと言われています。
そして1396年、、、、ニコポリスにて大敗します。 (ジギスくん28歳)
ちなみにニコポリスがどこかというと、現在はニコポルという名前で、ドナウ河畔のブルガリアとルーマニアの国境に位置しています。しかも結構内陸!当時のオスマン帝国がどれだけイケイケだったかがわかりますね。
ドラゴン騎士団を作る
命からがらハンガリーへと戻ったジギスムントですが、その威信は地に落ちたようなものでした。
嫁さんも、十字軍の直前に死亡してるし。1401年には貴族に監禁されたりもしました。
けれどもめげずに、国内の改革と寛容な政策を巧みに使い、次第に貴族たちの心を取り戻していったのです。
そして1405年(ジギスムント37歳)、彼に二回目の春が訪れます。(たぶん、そんなんじゃないけど)
スロヴェニアのお姫様だったバルバラ・ツェリスカを嫁に迎える事になります。このバルバラも語れば長くなるような人物なのですが、今回は割愛。
一説によるとハンガリー最強軍団とも言われる、このドラゴン騎士団を作ったのにもバルバラが大きく関わっているらしいです。
そんな捲土重来を体現しようとしていた頃に、ハンガリー王国と王女バルバラを守るために作られたのが、このドラゴン騎士団だったのです。(1408年、ジギスムント39歳、バルバラ18歳)
ようするにドラゴン騎士団は、一度地獄を見たジギスムント王が再起してイケイケの時に、再婚した少女にそそのかされて作られた騎士団だったのです!
おい、
その後のジギスムント
肝心なのは、この時世(1408年)には、最強軍団といわれるほどのメンツがジギスムント側に集まるほど、彼の覇権への道が現実味を帯びていたということでしょうか。
実際そのあと、1410年に神聖ローマ皇帝として即位。1414年に当時分裂していたキリスト教を統一。と、破竹の勢いで進んでいきます。
しかし、彼の栄光もそこまででした。
キリスト教を統一した流れで、異端審問⇨フス処刑(1415年)⇨国内の改革派(フス派)と、泥沼のフス戦争へ突入
と、時代に逆行していく歴史を辿ります。(フス戦争でも大苦戦)
そして1437年(69歳)、内戦で国がボロボロのさなか病にてその生涯を閉じます。
そんな皇帝ジギスムントですが、対オスマン帝国の対策を明確に打ち出せなかったこともあり、母国ハンガリーでは評価の低い人物らしいです。(この100年ほど後に、ハンガリーはオスマン帝国の支配下にとる)
けれども、その山あり谷ありの壮絶な人生は、調べているとなかなか面白かったです。
終わりに
今回はドラゴン騎士団と、それにまつわる神聖ローマ皇帝ジギスムントについてまとめました。
このブログで取り上げるには、ちょっと有名すぎる人物だったような気もします。
ジギスムントについて書いてあるサイトなんて、日本語検索ですらそれこそ山のようにヒットします。
当ブログの方針的には、他のサイトでヒットしないようなマイナー人物にスポットを当てねば。。。
ちなみに、ジギスムント、バルバラ、ドラゴン騎士団、実は乙女戦争という漫画で少し知っていたりします。時代物の宿命かラストは微妙な感じでしたが、この時代の東ヨーロッパを取り上げている作品ってそう多くないですし、おすすめな作品です。興味あればぜひ。