こんにちわ。今日もどこかをフラフラと旅しております、AJ (nobu)です。
今回は、つい先日行ってきたイタリアから、アントニオ・サントゥッチさんについてです。
フィレンツェのガリレオ博物館で彼の作った渾天儀を見たのですが、とても立派でした。製作者が気になり色々と調べたら、日本語の情報が少なかったので、当ブログではアントニオ・サントゥッチさんの日本における知名度向上のために、特集記事を書くことにいたしました。
イタリアへの旅行を考えているあなた、この記事をよめば、あなたの旅も深まること間違いなし!
サントゥッチの渾天儀
まずは、僕がイタリアで見てきた彼の作った渾天儀を御覧ください!
とにかく、でかくて大迫力でした。
それぞれのフレームが、星の軌道を表しているはずですが、さすがに詳細はつかめませんね。
お次は、中の方のアップ。中心に地球儀も据えてありますね。
でかいだけじゃなく、とても細かくて繊細な作品です。
それにしても、これは動いたりするのかなぁ。気になるなぁ
展示物には手を触れちゃ駄目ですよ
アントニオ・サントゥッチ の生きた時代
そんなフィレンツェのガリレオ博物館の目玉とも言える展示物の製作者がアントニオ・サントゥッチさんです。
サントゥッチさんは、1550年ころに生まれ、1615年になくなったイタリアの天文学者です。
なんとなくルネッサンス後期世代ですね、ちょっと過ぎた頃かもしれません。
モナリザやダビデ像は1501〜1503年の出来事です。イメージしやすい?
ルネッサンスはだいたい14世紀(1300年代)ー16世紀(1500年代)だよ
この辺の年代を、天文学史的な目線で見ると
コペルニクスさんが「あれ〜、地球じゃなくて太陽が中心じゃない?」って言い出した『天球の回転について』が1534年に発行されています。しかしあまりに斬新すぎて、その説が広まるのは、もう少し後のことでした。
観測の鬼とも言われた(僕が勝手に呼んでる)ティコ・プラーエさんが「あれ〜、なんか星増えてるよ」と新星の誕生(超新星爆発)の観測に成功したのが1572年。そのお弟子のケプラーが楕円軌道を思いついたのが1609年。
まさに天文学激動の時代です。
その後、教会からの異端視が強まり、1600年には地動説を支持したジョルダーノ・ブルーノ修道士が処刑され、これがルネッサンスの終わりとも呼ばれています。ちなみにガリレオが「それでも地球は回っている」といったのは1633年の宗教裁判だとか。
そんな時代に同じく天文学者として生きたアントニオ・サントゥッチさん。
彼もおそらく、当時のいろんな学説を読んで、同じく頭を悩ませていたのでしょう。
アントニオ・サントゥッチ 経歴
サントゥッチさんは1550年ころ、ピサの近くにあるポマランチェという小さな村で生まれ、1599年から1612年まで、ピサ大学の数学の学長を努めたとされています。
50歳から無くなる直前まで、ずっと学長。ピサ大学はヨーロッパ最古の大学とも言われているから、当時はかなり権威ある人だったのかもね
先程の大きな渾天儀は、当時トスカーナ大公国の大公だった、フェルディナンド1世・デ・メディチの指示で制作にあたったとされていて、1588年から5年間かけて制作されました。ということは38歳の時には王様から依頼が来るほどに名のしれた天文学者だったのですね。
フェルディナンド1世・デ・メディチは、賢明な領主で人気も高く、彼の治世は、メディチ家そしてトスカーナ大公国最後の繁栄とも言われています。(有名なロレンツォ・デ・メディチは彼の、ひいひいおじいちゃん)1609年に、60歳で亡くなったそうなので、サントゥッチとはほぼ同年代の王様だったみたいですね。
地球儀・天球儀・渾天儀 違い
ところで、皆さん
地球儀・天球儀・渾天儀の違いはわかっていますか?
地球儀の説明は置いておくとして、
星座の位置を球面に写し取ったものが天球儀。
星座の軌道をリングで表現したものが渾天儀だそうですよ。
渾天儀はアーミラリ天球儀とも呼ばれます。
おわりに
ということで、今回はルネサンス期の天文学者アントニオ・サントゥッチさんについて調べました。
ちなみにマドリードには、サントゥッチがスペイン王フェリペ二世に献上した渾天儀があるのだとか。
マドリードには行ったことがない僕としては、行ったときに要チェックです
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