ティムールあれこれ

ウズベキスタンのティムール像 中央アジア

ウズベキスタンに来てみると、やはりティムール推し感をものすごく感じます。日本で言うところの信長みたいな感じですかね。人気のぶっちぎりはもっとすごい気がします。モンゴルで言うところのチンギスハーンみたいな感じでしょうか。

世界史では、勉強した記憶はありますけどね。ここまでウズベキスタンで大々的に祀られているとは知りませんでした。チンギスハーンの子孫?だったり、「チンギスハーンは破壊し、ティムールは建設した」という格言だったり、ぐらいの知識でした。

ここは、もう少しティムールを勉強したほうがウズベキスタン旅行を楽しめそうですね。

ティムールを知る

ティムールは1336年から 1405年に活躍した、チャガタイ・ハン国の軍事指導者で、ティムール朝の建国者です。中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した人物です。

AJ(nobu)
AJ(nobu)

なるほど、日本で言うと室町時代。足利義満が金閣寺とか作ってた時代ですね

そもそも、ティムールは建国したわけではなくチャガタイ・ハン国の中で王朝を開いただけだったようですね。チャガタイ・ハンは、ご存知チンギス・ハンの息子ですね。

分割されたたモンゴル帝国のうち、紫が元、黄緑がキプチャク=ハン国、緑がイル=ハン国、そして深緑がチャガタイ=ハン国です。

 

1227年にチンギスハンが没した後、順調に分裂を繰り返したモンゴル帝国、大きく四分割された後、チャガタイ・ハン国は更に東西に分裂します。西チャガタイ・ハン国で没落貴族の息子であったティムールですが。東チャガタイ・ハン国が西チャガタイ・ハン国を攻め込んだのを機に行動を開始します。部族の領地を取り戻すと、西チャガタイ=ハン国の諸部族と、時に同盟を組み、時に裏切り、勢力を拡大していきます。ついには、当時のチャガタイ=ハン国の王女を娶って婿として王権側に入り、王国の支配権を得るに至ります。こうして、ティムール朝が始まるわけですね。

チムール帝国の位置

その後は、東チャガタイ・ハン国を皮切りに、分裂していた元モンゴル帝国領を次々に支配していきます。ホラズム王国、ジョチ・ウルス、ホラーサーン。最終的にはイラン全域、インドのデリー、イラクのマルムーク朝、オスマン帝国へも進行していきます。最後は中国方面へ、元を倒した明へ向かって侵攻しますが、志半ばで1405年、病に倒れます。ティムール朝はその後も続き、最終的にはインドのムガル帝国へとその系譜は受け継がれてゆくのです。

ティムールのこと

ティムールという名前は、当時はメジャーだっったようで、ティムール自身も、違うティムールさんと戦ったりした記録があります。そんな彼の二つ名は、”跛者のティムール”を意味する「ティムール・イ・ラング」だったそうです。跛者とは、 足の不自由な人という意味。事実だったそうですが、なんとも締まらない二つ名です。

また、上記にもあるとうり、ティムールは婿として、チンギスハンの血縁になったため、実際に子孫ではありませんでした。そのため、ティムールは生涯「ハン」の称号を名乗らずに、「キュレゲン(グルガン、ハンの婿)」や「アミール(長、司令官)」のといった称号を名乗ったとか。真面目か。

そんな彼の、人となりはというと

冗談や嘘を好まない性格であり、読み上げさせた文をすべて暗記するほどの優れた記憶力を有していた。ティムールは音楽を好み、アラブから中国に至る東西の楽士で混成された楽団が奏でる歌曲に耳を傾けた。

ティムールは読み書きこそできなかったが、彼と対面した人間は概して教養人という印象を抱いた。国家が拡大するにつれて、ティムールは歴史に強い興味を抱くようになる。遠征の途中などで時間が空いたときには従者に書物を読み上げさせ、特に歴史書を好んだという。歴史以外にも医学、天文学、数学の価値を評価し、建築に関心を示した。ティムールは学者のほかに、芸術家や職人に対しても尊敬の念を抱いていた

wikipedia

真面目かっ。その覇業とはうらはらに意外と勉強できるタイプのようです。あと、チェスも好き。

禁ティムール

さて、時代は移りソ連時代。当然、ナショナリズムの象徴である偉人などへの評価は禁じられます。ソ連史学界では、ティムールとティムール朝に対して概して否定的な評価が下されます。

ウズベキスタン共和国が独立した後、ティムールは民族と国家を象徴する英雄として復権を果たします。現在、首都タシュケントにあるティムール像は、1993年まではマルクス像が置かれていました。

最後に余談。そんなウズベキスタンの英雄ティムールですが、実はウズベク人によって倒されているのです。ティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝は「ウズベク」を自称する遊牧民族の国家なので。ティムール朝を滅ぼした民族が、現在ではティムールを称賛するという矛盾。おもしろいですね。

 

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